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構図のはなし

皆様お久しぶりです。まったく更新がないにも関わらずコメントや拍手を残してくれた方、
ありがとうございます。全部ちゃんと読んでいます。とても励みになります。

さて、今日は絵画に置ける「構図」の話を書きます。現代アートを目的でこのブログを読みにきている方は申し訳ない。現代アートで、デッサンは必要ないという人もいるかと思いますが、絵は「彫刻」「映像」「インスタレーション」より身近ですし、表現方法が限定されている分、見る力を鍛えるにはもってこいでと私は思います。一般的に学校で構図を作る時に注意されることとその理由について書きながら、「いい構図」とは何かを考えていきたいと思います。
今回は構図だけについて話します。色、明暗、絵の内容とか、そういう要素はすべて省いて話をすすめます。

1.モチーフを画面の中心に置かない


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Philippe de Champaigne "Skull with Still Life", 17th century
生物学的理由があるか分かりませんが、人間はなぜかバランスのとれたもの、左右対称のものを好みます。なので、ただ感覚で絵をかこうとしてしまうと、どうしても自分の描きたい物を中心におきます。左にものをおいたら、バランスをとろうとして、右にもおかなければいけないという感覚が自然に発生します。
左右対称のバランスのとれた絵、画面の中心にものをおいている絵が「いい」構図だと感じるであれば、あえて「気持ち悪い」構図を作るように意識するとかなり勉強になります。

なぜものを画面の中心においてはいけないのか。単純に「つまらない」構図になりがちだからです。見る人にとっても「理解しやすい」構図なので、絵を一瞬見ただけで満足してしまいます。上記の絵では、「ドクロ」が絵の「主役」だということが構図から一瞬でよみとれます。横に添えられた花や砂時計は、その引き立て役で、背景は存在しないに等しいです。

たとえば、小説でクライマックスが最初のページにきていたら、読者はもうその小説を最後まで読む気がなくなってしまいます。絵も、クライマックスにたどりつくまで少し視聴者の目を遊ばせた方が、画面の隅々までみてくれるはずです。絵は、描かれている物だけが重要なのではなくて、画面すべてが重要な役割を果たしている考えなくてはいけません。

上記の絵に関して一言言っておくと、必ずしも「理解しやすい」絵だといっているわけではありません。ドクロと、いつか枯れるであろう花、砂時計、作者はおそらく「死」や「時間」といったことをテーマにしているのでしょう。ただ絵の複雑さは構図からきていものでなく、モチーフが連想させるイメージとその組み合わせからきているものです。
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Massaccio, "Holy Trinity", 1425
左右対称の構図が有効なときもあります。たとえば、宗教画です。
一番中心にキリスト。その下両脇ににマリアと聖人ヨハネがひざまずいています。さらにその下は、この絵を注文したと思われるパトロンがひざまずいています。観覧者がこの絵を見て、最初に見るのはキリストで、そのあとにマリアやヨハネ、そのあとにパトロンたちに気付くでしょう。

キリスト教において、最も重要なのはキリストで、下にひざまずいているマリアやパトロン達はその二の次になります。観覧者の目が、キリスト→マリアとヨハネ→パトロン、と人物を見る順番が、実際に教会においての地位をあらわしているので、絵の伝えたい事と観覧者の目の動きが一致しているの、この構図は有効なのです。

左右対称でおもしろい絵はたくさんあります。でも、これからデッサンする!って言う人は基本的に左右対称の構図は避けた方が良いです。美術館に行ったとき、一つの絵画を何秒見れますか?あるミュージアムキュレーターによると、一般の入場者が、一つの絵画を見るのに使う時間は平均1〜2秒なのだそうです。ただでさえ、絵を見てくれる時間が少ないのに、それが一瞬で理解しやすい作品だと、1秒も見てくれないかもしれません。

2.観覧者の視線を逃がさない
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Juan Sanchez Cotan "Wuince Cabbage, Melon and Cucumber", 1906
上記の絵をみたとき、どこからみますか?また、最後に目はどこにいきつきますか?
おそらくこんな流れかと思います。

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左上の角から、右下の角にいく流れ?勢力?なんていうんでしょう、がかなり強いです。
この構図にはちょっと問題点があります。リンゴ→キャベツ→メロン→キュウリという順番でものをみていったときに、キュウリになどりついたあと、観覧者の目は画面外に放り出されます。画面外に放り出されるという事は、その絵に興味がなくなるきっかけを構図が作ってしまうことになります。
ちなみに、なぜ右下から左上ではなく、左上から右下に矢印が向かっていないのかというと、リンゴやキャベツが天井からぶら「下が」っているので、「下」に押す勢力が強くなっているから、右下から左下にはいかないようになっています。

次の構図はどういう流れになっているか?

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Paul Cezanne "Still Life with Apples", 1890-1894.

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テーブルの丸みの線がかなり強いので、観覧者の目はテーブルのふちをたどって、ぐるっと画面を回った後、右下の布に画面の中心へと押し上げられます。観覧者の目は、画面の外にいかないような構図になっているわけです。また、クライマックスであるテーブルの上のりんごをより引き立てるために、たどりつくまで視聴者の目に旅をさせます。右上隅には金属製の楽器のような物が、左上隅には戸棚っぽい物が、左下隅にはテーブルのふち、右下隅には、布や果物といったように、ただ観覧者の目を無意味に画面を一周させるのではなく、クライマックスにたどりつくるまで、ちょっとしたおもしろい小話をいれるのです。


次はどうでしょう?

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Paul Cezanne "Still Life with Apples", 1890-1894.

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まるでアリジゴク!

3.余白をうまくつかう
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Ando Hiroshige, 1797-1858.
空いているスペースがあると、つい埋めたくなってしまうのも人間の習性です。でも、画面の上では、「余白」は「紙の余り」や「書く事がなくなった」無駄なスペースではありません。

上記の広重の絵、右側にほとんどなにもかかれていませんが、「余り」に見えませんよね?それは、女性の視線が右上に向けられていることと、彼女の仕草が右上に何かあるかのようにほのめかしています。何も描かなくても右のページがうまく活用されています。右ページがすっきりしているため、逆に観覧者の想像で埋めることで、面白みが生まれるという事もあります。誰かに手を振っているのか?なにか動物がいるのか?船がくるのか?とかね。

まだまだ構図に関して言える事は山ほどありますが、長くなったのできります。一概に「すばらしい構図」というものは存在しません。すばらしい構図は「何が言いたいか」によります。「落ち込んだ気持ち」を表したいと思っているのに、セザンヌの静物画みたいにゴチャゴチャで、人の目を活発に動かす構図は適しません。逆に、ドラマチックな戦いの場面を描きたいと思ったときに、左右対称の安定した構図は適しません。

どんなルールでも例外はあります。上記のルールをすべて従ってしまうと「優等生っぽい」つまらない絵になってしまう可能性もありますwルールを知っておいと、ルールを従うも壊すも、すべて自分でコントロールできると良いですよね。

どうでしょうか?結構アート専門にやっている人もこのブログ読んでいることもあるみたいですが、基本的なことすぎてつまらなかったでしょうか、、?次回は現代アーティストについて書くようにします。
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The Other(アザーの概念)

どうもお久しぶりです。非常勤講師の仕事もようやく慣れてきました。
でもそれだけではちょっと生活できないので、仕事を探しにニューヨークに引越してみました。誰か仕事あったら紹介して下さい(真顔)

今日はOther(アザー)という概念にまつわる他の概念とその問題点について簡単に描きます。正直、知識が曖昧なので「あぁこういうコンセプトもあるんだ」という風に捉えて下さい。

Orientalism(オリエンタリズム)
オリエンタリズムという単語はエドワード・サイードの本で有名になりました。簡単にいうと、西洋以外の国、アジア、アフリカ、中東の国を文学や美術の中で讃える動きです。19世紀になると西洋の各国でで帝国主義が広がります。帝国主義国が植民地を増やす際、記録を残すため画家や物書きををつれていったそうです。ドラクロワもその一人で、アルジェリアを征服した時そこにいたハーレムの愛人達を描きました。ドラクロワはアルジェリアの色鮮やかさに惹き付けられたと日記に書いています。

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Eugène Delacroix, “The Women of Algiers,”1834.

当然ですが、支配国という強い立場を利用できるからこそ、こういう絵もかかれるわけなので、あまり気持ちのいい事ではありません。こういった絵画は多くの場合、西洋にとって都合の良い理想化をした姿をかいていて、現状からかけ離れた姿を描く事が多いのです。まぁ実際自分たちが征服した事実はこの絵からは読み取れませんね!(^^)
オリエンタリズムの根本には、西洋の文化はその他の文化より発達しているという考えがあります。「アルジェリアのハーレムの女性はエキゾチックで素敵だ!」と言っていても、文明的には西洋に勝ることはないと密かに思っています。常に上から目線の褒め言葉なのです。あれです、女性同士でよくある「可愛い!(私には負けるけど)」って言い合ってる感じです。え?違うって(^^)?

Primitivism(原始主義)
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Paublo Picasso"Les Demoiselles d'Avignon", 1907.

上はピカソの「アヴィニヨンの娘達」ですね。ピカソがアフリカのマスクや彫刻を研究したことがキュビズム誕生の鍵になりました。
さて原始主義とは。その名の通り原始時代にもどろう!原始時代はすばらしい!もう現代社会は疲れた!現代社会は汚れきっている!原始時代こそ本来の人間のあるべき姿なんだ!原始時代はピュアだ!自然と一体化するのだ!もっとシンプルの生き方がしたいのだ!という考え方です。疲れたサラリーマンが、「このプロジェクトがおわったら田舎でパン屋を開くんや、、、」といってる感じです。19世紀のヨーロッパぼ現代人も、都会を離れて自然に囲まれながら畑を耕してシンプルに行きたいと考えていたのです。実際は原始時代には原始時代の大変さがありますし、田舎は田舎の大変さがあるのにね!問題なのは、この「原始」を指しているのが、いわゆる発展途上国(未開発国)のことをいっている場合が多く、そういった国を褒めているようで、用はそういった国の文化は自分たちと比べて「未発達」で「未熟」だと言っているのでいいことではないです。19世紀こうした「原始的」な文化からアートのインスピレーションを探す動きが広まります。他の文化の理解を深める事は良い事なのですが、勝手にその文化を「原始的」と決めつけ、そこの現地の人を「原始人」と同じにするのはいかがな物でしょうね。

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Paul Gauguin "The Spectre Watches Her", 1892.

こちらはゴッホと、一時期共同生活していた事でも知られるゴーギャンの作品。ゴーギャンも現代社会に疲れ、「汚されて」いない楽園を求めてタヒチ島でくらすことになります。そこで現地の女性達を色鮮やかな絵の具を使って描きます。ゴーギャンとしては、タヒチ島の風景や女性の美しさを絵を通してヨーロッパの人に伝える事で、タヒチ島の文化を守っていると考えていたようです。しかし、ゴーギャンはタヒチ島で愛人をたくさん作っていたらしいのです(中には13歳の愛人もいたとかいないとか)。無自覚でしょうが、ゴーギャンも「白人」という優位な立場を利用していたんですね〜。タヒチ島は、支配国出身者の立場を利用して植民地を眺めた場合のみ、楽園だったんですね〜。

Exoticism(エキゾシチム)
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Claude Monet "La Japonaise", 1876.

エキゾシチムとは一言で言うと「見慣れないものがもつ魅力」です。個人的にそれよりもしっくりくる定義はAlden Jones の"the representation of one culture for consumption by another”(一つの文化が他の文化を消費(利用)するために作られたイメージ)。海外の物ってどうしても魅力的に見えますよね?それは普段の生活ではあまり見る事がないからです。でも自分の国の物が勝手に他の国に変な風に使われていたらイラッとしたりもしますよね。

Other
これらの三つの概念は互いに密接絡み合っており、これら三つの根本にあるのが「Other」という概念だと思います。「その他」や「私たちと違うもの」、つまり「自分たち」と対比した単語になります。オリエンタリズムでは「西洋の人」と「西洋以外の人」、原始主義では「現代人」と「原始人」、エキゾシチムでは「自分の国のもの」と「外国の物」という風に、「自分たち」と「Other(違う人たち)」という風に区別しています。日本でいうと、日本人以外の人を「外人」と呼ぶのと似たようなかんじ?「Other」は「自分たch」というものがなんなのか、ということを定義するのに役立ちます。自分がそう「じゃない」ことが分かれば、そう「である」ことが分かります。
しかし、今まで見てきた3つの概念の例からみてもわかるように、「Other」だと認定した人は自分よりも「下」だと思いがちなのです。自分が誰かに劣っているなんて誰も思いたくないですもんね!

アートの世界では「Other」というテーマでいろんなアーティストが作品を作っています。現代社会だと「Other」の中には、外国の人以外にも、女性、人種的マイノリティー、セクシャルマイノリティー、マイナー宗教に所属している人なども入るかもしれません。アート史の中でヘトロセクシャルの白人男性以外は、近年までみんな除外されてきたので自分のアイデンテティを主張する価値があるのです。この偏見はまちがってるぞ!っていう風に。「Other」っぽさを除外しようとしているんですね〜。アメリカという多人種、他宗教国家だからこそ、ホットなテーマというのもあるでしょうね。

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Wangechi Mutu "Mask", 2006.

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Wangechi Mutu "Uterine Catarrh", 2004.

上はケニヤ出身のWangechi Mutuのコラージュ作品。ファッション雑誌の切り抜きやアフリカ彫刻をコラージュする事で、アメリカにおいての「アフリカ系アメリカ人女性」像というものはなにか、について考えさせます。どこかのCMにつかわれそうな典型的セクシーさをもつアフリカ系女性の写真と、美術館で飾られるような古代文化のアフリカ芸術をあわせたシンプルなコラージュ。一般の「アフリカ系」のイメージなんてこんな物ですよね(^^)でも「アフリカ」なんて国は存在しませんし、たくさんの国が集まった大陸であるのにも関わらず、私たちの中になぜか一つの「アフリカ系」という空想のイメージができあがちゃっていますよね。この2つのイメージが無理矢理切り貼りされた感じが、ステレオタイプにはめ込まれることの残酷さや窮屈さを感じとることができます。
殆どの人がもつ「Other」のイメージもテレビ、雑誌、広告、ニュース、ハリウッド映画や、他の断片的な知識をコラージュして作り上げたイメージのようなものですよね(`・ω・´)キリッ白人だからってみんな英語しゃべるわけじゃないし、金髪で青い目な訳でもないし、日本人だからってみんなおとなしい訳でもないし、ゲイだからって女言葉使う訳じゃないし、宗教やっているからって怖い人ってわけじゃないし。自分とは違うって思っている人と一対一でしゃべってみると以外と「あぁ普通だ」「あんま自分と違わないんだ」って思える物です。自分に取って普通の事が普通の事のように、自分から見たら変な物は相手に取っては普通。時代が進むにつれて少しずつ「私たち」と「その他の人たち(Other)」の境界線がなくなっているんだね。

あと、ちょっと前にツィッターで「セルフオリエンタリズム」という単語を目にして、なるほどおもしろい、と思ったので今日はこんなテーマになりました。西洋の人に受けがいいように外国っぽさ。「Other」ぽっさを強調して自分売り出すことが「セルフオリエンタリズム」らしいです。

なんとなく「Other」という概念が伝えられたら嬉しいです。説明下手でごめんね!

フェミニストアート その2 The Male Gaze

今日は久々に歴史カテゴリ。ヒュウィゴー!今日のテーマは、
”The Male Gaze" 男の目線

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Afred Hitchcock, "Rear Window," 1954.

この単語は元々イギリスのフェミニスト理論家のLaura Mulveyが1973年に書いた"Visual Pleasure and Narrative Cinema"(訳:視覚快楽と物語映画)という論文にかかれています。
マルヴィーによると1950年代から1960年代に作られたハリウッド映画はのほとんどは、視聴者がヘトロセクシャル男性を前提としている、といってます。(もっというなら白人男性)このころの映画監督はほとんど男性です。映画の主人公もほとんど男性です。視聴者は主人公と最も共感し、主人公の立場から物語を見ます。無意識に視聴者は男主人公の視点からスクリーンで繰り広げられる物語を経験することになります。
なのでこのころの映画に出てくる女性は、ただの主人公や視聴者の性の対象として登場するだけであり、ヘトロセクシャルな男性視聴者を意識した視覚快楽のための、「見られるための存在」といえるとマルヴィーはいいます。それ以外にあまり重要な役目を果たしません。うーん鋭い。
(全文に興味あるひとはこちら

これには明らかな問題点がありますね。人類みんなヘトロセクシャルな男性じゃないということです。

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William-Adolphe, Bouguereau, "The Birth of Venus," 1879.

The Male Gaze という単語はアートの世界にも輸入されます。上は明らかに男視線であることがわかります。中心にいるヴィーナスは周りにいる男たちや天使、また絵画を見る人に裸の体を見せびらかすだけの存在と化しています。ポーズも「かもん!」とさりげなく誘っているかのような、まったく攻撃性を感じない物です。またヴィーナスは視線をそらしていますが、これもMale Gazeの特徴のひとつです。観覧者(見る側)とヴィーナス(見られる側)の力関係を表してします。視線をあわせると、必然的にヴィーナスの性格や内心を考慮しなくてはいけなくなり、自分と対等またはそれ近い存在と認めざる得ません。ただの物体としてみれなくなってしまうのです。誰かに面と向かって文句を言うより、顔が見えない相手にインターネットとかで文句を言うのが簡単なのと同じ心理状態でしょう。

私たちは 美術=裸婦像 というイメージを普通にします。でももしも「芸術家」が男性だけの職業という固定概念がなく、女性も評価されていたらおそらくここまで裸婦像はかかれなかったと思うんですよね。かかれたとしても上記のようなエロスを意識したヴィーナスみたいな作品は今より格段に少なかったはずです。

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Titian, "Venus of Urbino," 1538.

ヒッチコックにしてもヴィーナスの絵画にしても、時代が変わろうとも女性の描かれ方に共通点があることがおもしろいですよね。流し目、ちょっと交差された足、なにかいいたげな肩とか!

上記はティシャンの有名な裸婦像。手で股間を隠していますが、手つきがエロいので、逆に股間に目がいくようになってます。また背景にある黒い壁の縦線やベッドの横線をたどっても股間部分に目がいきます。構図が女性の性部分を強調するように計算されていることがわかります。また背景にある建築の直線がヴィーナスの女性らしいカーブを強調させています。直線は昔から男性、曲線は女性と関連づけられます。視線は一応こちらを見ていますが、「こっちにきたら?」というように、観覧者を見返す強い視線というよりは誘っている受け身の視線としてとれます。

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Edouard Manet, "Olympia," 1863.

上記の絵画はマネ(モネじゃないよ!マネだよ!)がティシャンの絵画からインスパイアされたものだといわれています。しかし、これは発表当時酷く批判されました。ティシャンの絵画はヴィーナスを描いているのに対し、マネは娼婦の絵をかいたからです。それは彼女が身につけているものから当時のパリの人には分かるようです。右に見える黒い猫も娼婦であるシンボルらしい。ティシャンのヴィーナスの手はわざと股間が目にいくようにするセクシーなジェスチャーですが、マネの女性の手はしっかりガードする役目を果たしています。
また、今までのヴィーナス像は頭が小さく体がひょろりと長い2次元ならではの理想体系ですが、マネの女性はわりと本物の女性に近いプロポーションをしています。また最も大きな違いは女性の視線です。しっかりと観覧者をみつめています。見る人になんとなく罪悪感を感じさせます(^^)
マネの女性の描き方は、女性をただの男性の目を楽しませるための物体(エロ本みたいなね!)から、ちょっと人間らしさを与えているように思えます。

さてここからはMale Gazeという概念を壊そうとする現代の作家をちょこっと紹介します。

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これは「ゴリラガールズ」というフェミニスト集団。身バレしないようにゴリラのマスクをかぶって活動します。上記のポスターにはこうかかれています。
女は裸にならないとメトロポリタン美術館にはいれないのか?
美術館で取り扱うモダンアートの5%以下が女性作家の作品です。でも描かれるヌードの85%は女性です」

わかりやすくて力強いメッセージ。ちなみにポスターに使われている絵画はアングルの有名な裸婦像。
ウェブサイト→http://www.guerrillagirls.com/

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Monica Cook

裸婦像=美しい、エロい というイメージをぶちこわす気分が悪くなるようなグロテスクな絵画。それでもどこか惹かれますね。ウェブサイトも充実しています。
http://www.monicacookart.com/

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John Currin, "Entertaining Mr. Acker Bilk," 1995.

元来の「女性像」というものをパロディしています。女性の顔が男性の影になって胸だけに目がいきます。まるでそれだけが重要というように!男性が年老いた知的なファッションをした白ヒゲであるのに対し、女性は金髪で若いです。また男性が女性より高い位置でしかも絵画の中心であるのに対し、女性がそのわきにひっそりいることも、昔の男女の価値観を簡潔に表現しそれをおちょくっています。もっと見たいからはこちら↓

http://www.saatchi-gallery.co.uk/aipe/john_currin.htm

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Will Cotton, "The Only Paradise is Paradise Lost," 2007.

パロディとは、すでに存在する他の芸術媒体を比喩したり、強調したり、おもしろおかしく伝えることでその模範している対象物を評論する役目を果たします。サウスパークなんかがよく使う手法ですね。今まで紹介したマネからカーリンは昔の作品、広告、男女の価値観、を何らかの形でパロディして元来の女性=ただエロスの対象物という見方を批評していることがわかります。
さて、最後のコットンはどうか?彼もピンナップガールや広告をパロディしています。女性とスィーツを組み合わせてとってもセクシーで魅力的な画面を作っています。女性もスイーツと同じように食べたくなるよう魅力をもっているという意味で同じ、女性を物体として扱う、という古い価値観をパロディしている、ということがしたいということは伝わります。しかしそれは果たして成功しているのか?
パロディした対象を批評する役目を果たしているのか?それとも単に昔ながらの価値観を受け入れて対象物と同じになってしまっていないか?コットンに関しては後者であることが多いような気がします。でも絵の具の使い方はうまいし、見た目がいいので好きになる人も多い気もします。

http://www.willcotton.com/

小さい頃から男の視点にたたされる/女性を恋愛対象としかみない映画、アニメ、小説、漫画ばかりに触れ、それが自然になりそれが人間の万事共通の視点と教育される事は、人間の無意識にどのような影響が出るかについて興味があります。

女性の視点で作られた映画や絵画はどのようなものなのでしょう?ゲイの視点は?レズビアンの視点は?バイの視点は?やはり自分の作り出した作品は自分の世界の見方に近づきます。だからこそ、いろんな人生を送ってきた、色んな人種、いろんな性別の作家や監督の作品に触れたいものです。万事共通の真実の視点なんて存在しません。

今まで西洋美術史の話をしてきました。日本もmale gazeという概念は適応するのか?女性がお色気担当というのは一般化してるでしょうか?たとえばドラえもんでしずかちゃんのお風呂シーンも男性視点が明らかな物もあります。萌えアニメとかもね!でも半数の人は別に女性のお色気シーンなんてなんとも思わないですし、男性視点の娯楽ばかりが増えることはもう半分の人たちを無視しているいことになります。だからといって男のお色気シーンをいれればいいかっていうとそう単純じゃないんですけどね。

そう考えるとセーラームーンだったり、プリキュアシリーズだったり、ジブリシリーズだったり、女主人公のアニメが比較的多い日本は興味深いものがあります。一方で女性が共感しやすいアニメと思いきや、男性も萌も萌えできる男性視点の面ももっています。短いスカートで戦ったり、変身シーンとかセクシーですよね。またその逆のBL文化とかも面白いですね~。複雑!

ポストモダニズム

そういえばポストモダニズムについて書くといいながら、書いていなかったなぁって思ったので、書こうと思います。美大いっているかたは講評会で、一度は耳にしたことばでしょう!あくまで私のわかる範囲で、かなーり短くまとめます。それにしても過去の私の記事テンション高すぎてうざいわー(^p^)そのうち編集しますね!(といってした試しがあまりないことは自覚している)

ポストモダニズムについてかく前にモダニズムとは?

アートにおいてモダニズムとは、おもに抽象表現主義やミニマリズムの時代を指すように思います。グリーンバーグを中心とする評論家によって、アートはこピュアで抽象的なアートが美しい!それが正しい!みたいな考えが主流になました。評価されるアートはそういった評論家に作られた基準に従っているものだけがすばらしい作品とされました。またモダニズムの特徴として、油絵は油絵、彫刻は彫刻とはっきり分野が分かれていることが特徴の一つにあげられます。今、現代アートをあまり知らない人が抽象表現主義やミニマリズムの作品をみたら「なんてアバンギャルドなんだ!」「なんじゃこりゃ!」って感じるかもしれません。だけどある意味抽象表現主義やミニマリズムの中で生まれた作品は、結構保守的な考えのもとに作られているのかもしれません。昔から西洋のアートはある一定の評価基準がありました。技術の高さだったり、「美しさ」だったり、いかに聖書の一場面が的確に表現されているかだったり、時代によってちがいますが主流の評価基準があり、それに削ぐわないものは価値のないものとされたわけなので!

ポストモダニズムとは!
ポストとは「~の後」という意味です。ポストモダニズムは、モダニズムのあと、1960年代から1980年代にかけてはやった思想(?)です。*この記事の投稿順番まちがっているかもしれないですね。そのうちネオダダとミニマリズムの間あたりに移動します*
ポストモダニズムとモダニズムの大きな違いはモダニズムにあった一つの評価基準がなくなってしまったことです

一つの評価基準があるということは、その評価が高いもの=正しい。正しいという事は「真実」に近いということを意味しているように思います。しかしポストモダニズムに入ってから気づいてしまったのです。「真実」なんてないことを。(^^)
私たちが「真実」だとおしえられた科学ですらも、結構あいまいなような気がしません?たとえば仮定をたてて実験を繰り返し、仮定を「証明」するような結果がでればその仮定は「事実」にかわるわけです。(理科系の人に怒られそうな発言ですね。でもたとえです!た☆と☆え!)じゃぁその実験結果から出た「例外」はどうなる?捨ててしまっていいの?世界共通の普遍的は「真実」「事実」というものの存在するのか?すべてを「事実」ととらずに「問いかける」ことがポストモダニズムの考えという風に理解しています。たとえばのはなし、日本では信じがたいですが、今米国とか中絶問題とかで「宗教」と「科学」の衝突がおこっています。(宗教=命は神の作ったもの!ただの細胞の固まりではない!だから中絶反対!!科学=生まれるまで命ではない!中絶賛成!母親の人権尊重!)どちらがどちらか一方より正しいと言い切れないから議論されているのです。実際すべての人がそう理解力があるかというと、心の奥底では「自分が正しい」と思っているでしょう(笑)。だけど「自分の正しい」と思っていることは「人の正しい」こととは違うということを知っているだけでもポストモダニズムのはじまり(^^)科学が芸術より事実に近いとは決して言い切れないのです。

泉
Marcel Duchamp, "Fountain" 1917. (photograph by Alfred Stieglitz.)

このブログの歴史カテゴリーはデュシャンの便器からはじめたのですが、デュシャンという人物が時代をかなり先取りした人物のようです。彼のやっていたことはポストモダニズムそのものなのです!彼のアートは視覚を楽しませることより、「アートってなんなの?」「ギャラリーに評価されたアートがすばらしいアートなの?」など問いかけをメインにしているからです。だから彼の便器は今でもアートの歴史をかえたといわれるのでしょう。すごい便器だぜ!

ポストモダニズムはアートだけの動きじゃなくて、哲学、音楽、科学、文芸、などいろいろな分野に大きな動きを与えました。普段使っている文章すら、意味が曖昧なことがわかってきたのです。確かなことなんてほとんどないんじゃないか?って。
アートにおいてさらにポストモダニズムが重要なのは、アートがただ目を楽しませることを目的とするのではなく、アートがそういった「問いかけ」のメインの場になった、と教授から聞いたことがあります。アーティストが評論家の立場的なものを求められるようになったのです。だからきっと美術大学とかで「コンセプトは?」って聞かれるんでしょう。恨むんだったらポストモダニズムを恨め!(笑)(私はときどき恨みたくなるw)モダニズムにはあった評論家が作ってきた評価基準がなくなったため、芸術家がただものを作って、発表して、評論家が評価を下して意味をつけるという形から、芸術家が自分の立場をある意味正当化することを求められるようになったんじゃないかなぁ。

というわけ、ポストモダニズムはアートの動きというより思想に近いので、これがその例だ!って指すのはむずかしいです。パフォーマンス、ポップアート、インスタレーション、コラージュ、など分野をとらわれないことは一つの特徴かと思います。

今はポストモダニズムの最中なの?っていうのも議論中です(笑)間違ったこと、あってること、というのが不安定で、すべて問いただされるのがポストモダニズム。

最後に一言いっておくと、ポストモダニズムのアートがモダニズムのアートよりすぐれていると言っているわけではないです。まぁ、たしかに私はあまりミニマリズムのアートは好みではないけれど(w)それはあくまで好み。ポストモダニズムの思想のおかげで、ミニマリズム、ポップアートも、みんなそれぞれの良さがあるよね!って認められるようになったのです。ただ、主流の動きがなくなったのでアーティストが自分で「何がいいものなのか?」ということを考えてものを作らなくちゃいけなくなりました。それは人によりますが、いいことなのかわるいことなのとか言い切れません。自由と言えば自由ですし、不安定といえば不安定です。
また、評論家の意見だけじゃなくて、見る人みんなの解釈も大切にされるようになりました。だからといって、どんな解釈をしてもいい、ってわけじゃありません。(^^)アーティストが、「戦争の悲しさ」をテーマに作品作ったのに、鑑賞者がその作品の前で爆笑していたら、それはアーティストの力不足で作品として失敗しているのです。だから評価基準はあります。ただモダニズムの時代より曖昧なのは確かです。

次回はもっと画像いれた緩い内容について書きたいな!それでは。

ちょっとずれてますがもっと読みたい方。ロランバルト「作家の死」。作品をよむとき、作家の性格、生涯、趣旨などとかけあわせて読解するのではなく、作品は作品として読解するべきであると書いた。アートの分野でもとても影響を与えた文章です。
Roland Barthes "The Death of the Author"

パフォーマンスアート

今後の予定としては、この記事でパフォーマンスアートについてかいて次はポストモダニズムについてわかることをちょっこっとかいて(かけるかわからないw)、それで歴史の分野は一区切りにしたいと思います。正直言うと、パフォーマンスアートもビデオアートもそこまでみたことがありません。大学でやっている人がいたのでその人のパフォーマンスをみたくらいでして、歴史的にどういう人が有名かとかは私の知識不足でちょっとわからりません。なので私が知っている名前でYoutubeですぐ出てきたものについてを書きますw

パフォーマンズアートの特徴はネオダダ同様に、アーティストが「観客」の存在を認識して、そこからアートの「意味」を作り出すことだと思います。



上の作品はジョンレノンの奥さんとしても有名な小野洋子さん代表作"Cut"です。ステージの上にすわりそばにハサミをおくか観客にわたします。パフォーマンス中に観客に服のどの部分を切ってもいいですよ、と言います。さてこれはなにを意味しているんでしょう?

このアートのおもしろい点は、服を着ることを強制されてないにもかかわらずほとんどの観客がハサミを渡されると切ってしまうところにあると思います。メインのテーマは人間は「やってもいい」といわれればやってもしまうのか、っていう疑問を投げかけてくることだと思います。このときは服を切ってもいい、というものでしたが、人を殺してもいい、強奪してもいい、襲ってもいいといわれて武器をわたされたらやってしまうのか?これをもし日本でやったら観客は切るでしょうか?パフォーマンスを行う国によってその国の人の反応の違いについて考えるのも面白いかもしれません。観客が女性の場合と男性の場合とで性別でわけたときの反応の違いを分析するのもおもしろいかもしれません。など場所や状況によって作品の生み出す疑問は変わってきます。

動画中に解説の女性が言っているように、もしも観客が仮にハサミを渡されてなにもしなくてもそれはそれでパフォーマンスアートです。その場合は、「なぜ切ってもいいといわれて、切らないのか?」「切っていけないという理由はどこにあるのか?」と次のような疑問が出てくるので、アートが生み出された趣旨は違うにしてもパフォーマンスアートとして成り立ちます。観客という不特定要素が予想外の作品を作ることもあるので、そこがおもしろいんじゃないかなぁ(^^)



クリスバートンChris Burdenの”Shoot"という作品です。彼はとにかく自分を痛めつけるアートをします。自分を車に釘で打ち付けたり、高圧電流が流れる水面の中のはしごの上に何時間もいたりするドMアーティストです。上記の動画はギャラリーの中で観客がいる前で自分の腕をアシスタントに銃で撃たせます。目の前で行われているにもかかわらず誰も止めません。「なぜとめないのか?」「アートだからといってなにをしてもいいのか?」「自分のカラダなのだからどう扱ってもいいのか?」などと疑問がわきます。また観客の中には当時まだ記憶に真新しいベトナム戦争のことを思い出す人がいるかもしれません。遠い国の戦争や暴力は実感がわかないものです。間近で銃を撃たれることを目撃したら戦争に対する意識がわかるかもしれません。

この記事を読んでも、「これのどこがアートなんだよ」って思う人もいるかと思います。無理矢理解説つけてないかって思うかもしれません(^^)アートをあまりみたことがなかった数年前の私はきっとそう思っているでしょう。まぁそれはそれでいいんじゃないでしょうか(えぇ)人の感じ方や興味ある分野は様々です。ひとつのジャンルのすべて作品がおもしろいと思わなくても、どんなジャンルにもおもしろいって思える作品は必ずひとつくらいるあると思います。いつか、たまたま自分が興味ある分野で考えてた事が見事にそのパフォーマンスに引き起こされて「あぁ、なるほど」ってなる。。。。かもしれません。まとまらなくなってきましたが、ここの例だけをみて、「やっぱわけわかめ!」って思わず、広い心でいろいろみることをお勧めします!

最後にちょっと癒し的動画。William Wegman という犬と一緒にアートを作るアーティストです。アートはすべてがむずかしく、まじめなわけでもなく、おちゃらけて、ユーモアもある作品も多いです。このわんちゃんはセサミストリートにも登場しました。



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