はじめてこのブログを読む人におすすめの記事:
アート勉強して気付いた事/デュシャンの便器/ポロック/ 知っておくと便利/ リアルに見える絵画は本当にリアル?

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なぜだいたいの人が「印象派が好き」というのか

父にコラージュ作品を見せたら「印象派みたいな風景画かかないの?」といわれました。今回はなぜいろんな人が「印象派が好き」と言うか、について考えます。たぶんこのブログを読んでいる方の中にもいるかと思います。私も見飽きた感はありますが元々嫌いではありませんし、好きであることは悪いことではありません。しかしこの記事を読んだあと本当に好きか?と自分自身に聞いてみましょう。

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Claude Monet, "Waterlilies, Green Reflection, Left Part", 1916.

さて「○○が好き」というのはどういう意味なんでしょう。
私は「好き」イコール「慣れている」「理解できる」という風にとっています。例えば私は猫の柄で一番好きなのはキジトラです。それは小さい頃にキジトラ柄の猫を飼っていたからだと考えられます。また「母の味」がすばらしいと感じるのは母親の料理を食べる頻度が多いからで、生命維持のためか舌にある細胞が与えられた環境で与えらる食事を「好む」ように変化した、と考えています。「物体」そのものに好きになる要素が元々秘められるということは考えづらいです。実際人の好みはバラバラだからです。食べた事がないものを「好き」というのは不可能です。あまり馴染みがない海外の料理がはじめ「変」だと感じるのは、まだ舌がそういった味に慣れていないから。海外の人が我慢してそれを食べているのではなくて、海外の人も生きるために現地で採れるものを好むように舌と考えが変化したと考えられます。「ウニ」や「ビール」は大人の味と言われますが、大人になったから好きになるのではなく、慣れたから好きになります。

「印象派の絵が好き」というのは日本に印象派の展覧会が頻繁に来る事と、小さい頃から抽象的な絵より写実的な絵、ぐちゃぐちゃなものより技術があり「きれい」なものを好むように教科書なり、メディアなり、親なりに教育されて慣れてきたからだと思います。はじめから「きれい」なものがすばらしいものだと生物学的にインプットされていると私は思いません。国や時代によって美意識がだいぶ違うことがそれを証明していると思います。たしかに印象派は好きになりやすい要素をたくさんもっています。モネの色彩感覚は相当優れていると思いますし、タッチが繊細です。モチーフも女性だったら花だったり、きれないものを選びます。「きれい」だと思う物にはある程度生物学的理由があるかもしれません。でも「きれい」=「すばらしい」「好き」というものは社会によって決められることが大きいと思います。印象派の絵も発表当時は「下書き」だといわれ見下されました。ゴッホは生きている間一度も絵を売った事がありません。今ではこんなに賞賛されるのにもかかわらず。それはその当時の価値観が「ていねい、技術」=すばらしい が一般だったからです。

前の「リアル」な絵画についてかいた記事にもかきましたが、なぜ何千年もあったのに古代エジプトの壁画はいつまでも「リアル」にならなかったのか。なぜ江戸の人は浮世絵でエロ妄想ができるのか。なぜ一昔の漫画の絵が「古い」と感じてしまうのか。美大の受験生がたった2年くらいで写実的に絵がかけるのに、過去に死んでいった江戸時代の人や古代エジプトの人が何億もいるのに、その中に一人も今の受験生程度の「才能」を持つ人がいなかったと考えるのはあまりに不自然です。ということは現代は「写実」というスタイルが慣れ親しまれたトレンドになっていて、そのうちそのスタイルも「古い」「技術不足」だと感じる日が来るかもしれません。

数学が嫌いな人は数学ができないひと、理解が難しいと感じる人です。得意な人ほど「好き」だと感じます。現代美術も「わからない」と感じてしまうと「嫌い」になってしまいます。現代アートも学問と同じようにある程度の知識やわかろうとする気持ちが必要です。また、好きなものは慣れたもの、わかるもの、を逆に考えると慣れればほとんどのものが好きになれるという風にも考えられます。

慣れている物を好きでもいいと思います。でもなんとなく社会決められたものを好きになるってくやしいじゃない?(^^) ここまで読んで本当に印象派が好きだといえますか?慣れているものを好きだと思っていませんか?嫌いな物を好きになるチャンスを与えていますか?私はいろんな作品を見て理解した上ではじめて自分の好みを発見できると思います。

最後に、現代アートは「ゴミ」「嫌い」と決めつける人もいますがその人たちにいいたい、現代アートを分かろうとしたことがあったか?と。一部のアートを見て決め付けてはいないかと?音楽、舞台、映画、文章、アニメ、漫画、今までに何億も作られています。99%はゴミでしょう。人に「好き」だと思われるのはわずか1%。現代アートも同じように99%がゴミです。私も作品はそれなりの量は見てきましたが、作家の名前まで覚えているのはほんの少しです。99%の一部をみて学問の分野を全体を否定するのはちょっと早とちりじゃないかなぁって思います。気持ちは分かります!私も理解できなかったときは嫌いでした。見えること=理解できるはず という固定概念があるのかわかりませんが、他の分野に比べて現代アートは嫌われやすいですよね。音楽で嫌いな曲があっても「音楽嫌い!史ね!」と存在まで否定する人はなかなかいませんし、ただ好みにあわなかった、って思う人がほとんどでしょう。現代アートもいつかそういう風に思われるようになったらいいなぁ。

関係ありませんが、来週卒業展覧会です。卒展にのせる作品一部もサイトにアップしたので、よかったらみていって下さい。いつか日本で展覧会したいなぁ~。
http://saorimoriizumi.com

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著作権とオリジナリティ

「著作権の侵害」「○○のパクリ」という理由でアートが批判されたりすることを目にします。今日は著作権とアートについてあえて怒られそうな角度から見てみようと思います。法律だからって絶対守らなきゃいけないのか?っていうことについて一緒に考えてみましょ、、(^^)といっても法律を勉強している訳ではないので、おおざっぱな著作権の概念的(?)な話になります。

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Left: Robert Raueschenberg,"Factum I"(1957);Right: Robert Rauschenberg, "Factum II"(1957)
オリジナルってなに?コピーってなに?違いはあるの?手書きだとオリジナルになるの?写真や新聞の切り抜きをコラージュしたけど、この作品完全にオリジナルといえる?ラウシェンバーグの作品


そもそも著作権とは何か:
言語、音楽、絵画、建築、図形、映画、写真、コンピュータプログラムなどの表現形式によって自らの思想・感情を創作的に表現した者に認められる、それらの創作物の利用を支配することを目的とする権利をいう。著作権は特許権や商標権にならぶ知的財産権の一つとして位置づけられている。
(ウィキペディアより)

この「自らの思想」「創作的に表現」とは何でしょう。「オリジナリティ」だとか「個性」とか「才能」などにおきかえられるかもしれません。今回考えてみたいのは自らの思想や表現とはなんだろうか?他人に全く影響されない完全にオリジナルの考えや表現というものは存在するのでしょうか?(生まれたときから一人でそのあと一生ひきこもらない限り無理じゃない、、?)

こういう経験ないですか。昔誰かが言っていた事がいつのまにか自分のアイデアになっている。たとえば小学校の先生が言っていたいい言葉に感動していつのまにか自分の考えになっている。そしてそのことばをまた将来自分が先生になった時に生徒に伝える。
考えや好みは親、友達、周りの人、育った環境、メディア、歴史、教科書などいろんなことで形成されていくものだと思います。そう考えると著作権という概念は創作性そのものを妨げている物かもしれない、、、という疑問が出てくるかもしれません。
日本で盛んな二次創作や同人活動。よくグレーゾーンといわれてますね。みんなで盛り上げるから原作も楽しくなりませんか?また日本ではニコニコ動画という動画サイトがあります。Youtube とのおおきな違いは、人が残したコメントが画面に中に流れる事です。字幕職人がいたり適切な突っ込みをいれる視聴者のコメントがあったりして、動画投稿者だけではなくみんなでおもしろい動画を作っているという感じがあると思うんですよね~

アートを作る時、好きな作家の作品を見ます。私だったらこうする!もっとよくできる!と思うことがあります。まるまるパクっては意味はありません。でも面白いものをさらにおもしろくしようとすること、そういうのがどんどん重なっておもしろい作品ってできあがるんじゃないかなぁって思います。一つの作品を「一人」で作り上げたとしても、それは過去の見てきた作品や経験のコラボの産物だと思えたりします。

著作権は概念であり事実として存在している訳ではない。そんな内容の本を読みました。
はじめて著作権法律ができたのはイギリス1709年。 Statute of Anne という法律ができました。このころの著作権は主に「文章」を守るためのものです。この法律ができるまでStationers' Company(書籍出版業組合)がイギリスの印刷業社(はじめは手写し)を独占していました。しかし 印刷技術の発展により組合を通さずに各地で勝手に本が印刷される事態がおこるようになりました。
組合の利益を守るため政府に働きかけてできたのが「著作権」よいう法律だったようです。つまりはじまりは作家の権利を守るためではなく組合を守るために作られたんですね~。
その法律ができてしまうと作家は自分の創作物を広めるためにはどうしても権利を売らなくてはいけなくなりました。

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Caspar David Friedrich, "The wanderer above the sea of fog", 1817
ロマン主義の絵画の例、人が自然に圧倒されている様が描かれている。

この法律が出来上がった頃、ロマン主義の思想がはやっていました。ロマン主義は啓蒙時代Enlightenmentの反発運動のような物です。啓蒙主義は「聖書や神学といった従来の権威を離れ、理性(悟性)による知によって世界を把握しようとする思想運動。」(ウィキペディアより)。ロマン主義は簡単に言うと個人の感情や経験を大切にする運動です。この思想が広まり文章や絵画は作家の「天才」や「才能」によって作られるという考えが広まっていきます。

それまでは作家は天才や才能のある人、ではなく「職人」と同じように考えられていたようです。「文章」は、過去のルールを継承し組み直したものと考えられていて、すぐれた作家は技術を巧妙に使いこなせる人物だと思われていたのです。スポーツ選手と似た感じかな?著作権という概念の形成がロマン主義の「オリジナリティ」「個人の表現」の主張という思想とうまくマッチしてしまい、今ではあたりまえのように作品は作家個人の「才能」だったり「オリジナリティ」からきているという考えが浸透しています。

かなりはしょっているのでもっと読みたい人はこちらをどうぞ。英語です Peter Jaszi, Towards a Theory of Copyright: The Metamorphoses of Copyright


というわけで著作権という概念ができたのはここ数百年、日本では明治初期にとりいれられたようです。今ではその存在に疑問をもつ人が少ないでしょう。著作権にはもちろん利点はあります。でも売り買いできるからこそ問題点もあります。たとえばある脚本家がワーナーに脚本の権利を売りました。しかしワーナーはその脚本で映画を作りませんでした。ある脚本家はもうその脚本の権利を所有していないので他の映画会社に持ち込むことができません。ワーナーがまたその脚本の権利を売らない限りほとんどの人の目に触れず埋もれてしまうのです。これはアメリカの話です。日本の著作権の法律はもう少し作家に優しいイメージがありますが、詳しくは知りません。知っている人がいたら教えて下さい。

いいものを作っている人はもちろん認められて創作を続けられるようにお金を支払われないといけないと思います。じゃないとなくなってしまいますから!インターネットでゲーム、音楽、映画がどんどん「違法」DLしていくなか著作権はこれからどう時代に対応していくのか気になります(^^)

というわけで今回の記事で何がいいたかったかというと違法だからだめなアートという批評の仕方に個人的に違和感を感じる、という話でした。「自らの思想、感情の表現」というものがあいまいで明確な判断基準がない物を守る「著作権」をただやみくもに守るべきなのでしょうか?一人で作品を作った気でいても、それは過去にいろんな経験をし、いろんな作品や人と交流があったからこそできあがった作品だと私は思います。またみんなで作るからよりすばらしいものができることもあると思います。

ですが著作権を扱っているアートならば法律を破るだけではたぶん見る人は納得がいきません。改めて著作権とは何かと考えさせられるかどうか、が評価の基準になると思います。むずかしいですね!

次は軽い内容にします!しばらく更新しなかったけどそれでも拍手押してくれた方、コメントくれた方、ありがとうございます。

「リアル」に見える絵は本当にリアルか?

私たちが「リアル」だ、と感じる絵は何か、ということについて考えてみました。

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Andrew Wyeth, “Amantes” (Lovers), 1981

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William De Kooning, "Woman V", 1952-1953

辞書で引いたリアルの名称:1 現実に即していること。また、そのさま。あるがまま。

一般的に、上の2つの絵のうち「リアル」だと感じるのはワイエスの裸婦(上)でしょう。下のデクーニングは抽象的すぎて「わからない」という人もでてきます。それはなぜか?

仮に「リアル」な絵画は人がモチーフを見たときの自然な見方を模してかいた絵画と仮に定義した場合に話を進めていきます。

ワイエスの女性はデクーニングの女性よりリアルに描かれているでしょうか?私はそうとは思いません(^^)
ワイエスの作品はカメラのレンズ(目)の世界の見方に近い描き方なわけであって人間の目の世界の見方に近い描き方デクーニングより必ずしも近い訳ではないと思うんですよね~。

どういうことかというと、
人間は目でみるだけの生き物ではありません。あたりまえのようですけど、体でその場の空気を感じ、頭も使い、そして目もつかい、見ます。目だけで世界を経験することは不可能じゃありません?目は頭にくっついています!体にくっついています!カメラのような機械と同じように世界を見ているはずがないっ!


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Rene Magritte, "This is not a Pipe", 1928-1929.
マグリットの「これはパイプではありません」。パイプのです。

裸婦の絵は裸婦ではありません。絵です。ただの絵の具の集まりです。脳科学者ではないので、細かい事は分からないんですが、仮に絵の具の固まりが裸婦に見えるのということはあらかじめなんらかの「裸婦像」みたいなのが頭にあってその目から入ってきた情報が「裸婦でーす」と訴えかけてくるから裸婦に見えるということにしましょう。その頭にあらかじめ入っている「裸婦像」というのは生まれながらにして持っている物ではなく、今までの経験から構築されたものだと私は思います。


「リアル」に見える絵の特徴の一つに奥行きや立体感を感じるかどうかということがあると思うのです。これは陰の付け方だったり、遠くの方を小さくしてぼやかしてみたり(遠近法)とかで出せます。
デッサンや静物画をかいた事ある人なら分かると思うんですが、結構これって不自然じゃありません?光ってすぐ変わってしまうし、制作時間は何時間もかかっているのに、絵として辻褄が合うようにではまるで一瞬を切り取ったかのように光のくる方向や色を統一しなくてはいけません。また、本当にモチーフをみたとき、遠くの方はぼやけていますか?おそらく遠くの方をみるときは、そちらに目のピントをあわせて前のほうのものがあまり見えなくなりません?必ずしも近い物体に目がずっととまってることはないんじゃないかな~

つまりなにがいいたいかというと、私たちが一般にリアルだと感じる絵画はかなり人工的に構成され、カメラのレンズの見方に近く、人間の自然な見方ではない、リアル(ありのまま)ではないということです。
ほとんどの人間には二つの目があり、かなーりぼーっとしない限り一点に集中することってあんまないと思うんですよね。全体を把握しようとしてきょろきょろするのが普通だと思います。また疲れてきたら姿勢がくずれて、モチーフをみる角度も微妙に変わってきてしまいますよね。また人間の目は他の生物と同じように、見ている物に優先順位をつけて物を見ます。平等にすべての情報が入ってくる訳ではありません。お腹がすいてたら目が食べ物に目がいってしまうし、人ごみの中で知り合いがいたらなぜか知り合いが目につくし、さびしい気持ちだったらなんとなく暗い物に惹かれるかもしれないし、、たとえはやまほどあります。そのとき必要だと感じているものによって目につく物って変わってくることが自然だと思うんです。逆に確実に無視されていて書き込まれない情報もたくさんあるでしょう。さっきも言いましたが目玉は頭と体にくっついてるから!すべての情報をきっちり細かく書き込まれた物が自然な人の目の見方とは思わないなぁ。

遠近法はルネッサンスのころに開発されました。きっちりとした遠近法使用した絵画をかくための機械↓
Durer "Reclining woman" perspective picture
Durer Reclining Woman Perespective
      モデル↑             芸術家↑
無理矢理すぎる!!遠近法に忠実で正確な絵画を角煮はここまでしなくてはいけないんです。

結論から言ってしまうと、私は何がリアルで何がリアルに見えないかは慣れだと思ってます。現実の「本当の姿」とか関係ありません。「現実」とか「真実」とか「本当の姿」とかを「ありのまま」表現する事がそんなに簡単なはずがありませんし、人それぞれの経験を切り離してただ「ありのまま」を表現する事は可能でしょうか?私は無理だと思います。人間の体験はあまりにも複雑すぎる!

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Narmer Palette in Cairo-(Egyptian Museum); this facsimile-version resides in the Ancient Egyptian wing of the Royal Ontario Museum,BC 31st century.

エジプトの人はデッサンができなかったのか?エジプト人の目はおかしくてこういう風に世界が見えたのか?そんなことはない(^^)!私のようなへなちょこでも2年くらいデッサン教室通っていたらそれなりに写実的な絵がかけるようになりましたし、数千年かけて人間の手がようやく「写実的」な絵画をかけるまで発達したと考えるのは不自然!紀元前31世紀のエジプトではこういう人間の描き方がはやりだったのでしょう。ワイエスとかルネッサンスの絵画が今私たちにとって見慣れた書き方であるように!こうした見慣れたかきかたからあまりにも外れてしまうと「変」だと感じ毛嫌いしてしまう。そう今の現代アートがそうであるようにね!

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Copyright © 2007 Crypton Future Media, Inc./KEI all rights reserved.

ここ数年人気者の初音ミク。エジプトの壁画と同じだと考えるとおもしろくありません?エジプトの壁画の人物はなぜ頭が横向き、胴体が正面向き、足が横向きなのか?当時頭と足は横向きが最も美しく、胴体は正面(横向きだと分かりづらいというのもあるでしょう)が美しいと思われ、そのパーツをくっつけたのがエジプト流のかきかただと聞いた事があります。つまり理想的な人間像を描いたものだとも言えます。ミクもそうではありませんか?大きい目、短くて細い胴体、長い手足、これは現代の日本人の理想的な人間像なのかもしれません(^^)私も二次元になりたい><

人の目や脳みその大まかな構造は何千年も前に形成されたものと対してかわらないかもしれません。でも時代や考えの変化の積み重なりにより見方や考え方は進化しているように思います、、!だから時代によって絵の好みは変化していく。。世界共通で時空を超えたの美意識とかリアリティなんて存在しないのか、、?

このまえおもしろい本を読みました。古代ギリシャの最古の長編叙事詩「イーリアス」がかかれたころには「色」という観念がなかったのではないかという内容です。細かい事は忘れましたがどうもイーリアスを翻訳をみると色に関しておかしな表現が多いらしいのです(空がワイン色とか、海が血の色とかそんな感じです(例えはてきとうです))。でも空って紫って表現するかな?海を赤って表現するかな?ホメロス精神状態を反映しているのでは?と考えたのですがどうも違う。もしかしたらギリシャの時代は色という観念がなく「暗い」「明るい」しかなかったというと納得がいくのではないか、とほんの作者が言ってました。ギリシャ人にとってワインも赤も海の色もみんな同じ「暗い」という色だったんですねー。似たような話で虹の色の数は世界各国で違うというのは有名な話ですよね(^^)
なんか鳥肌たちません?色という観念は「絵の具」を売る必要ができてから作られた観念だと作者はいってました。いつのまにかその「色」という「概念」が長年定着し「事実」になり、誰もその存在に疑問を持たなくなっていったという事です。

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色はグラデーションですもの!はっきり区別がついているわけではない。これは人種とかセクシャリティとかいろんなことにいえますね~

同じようにいつか抽象絵画がたくさん作られていいいくうち具象も抽象違いがなくなるのではないかと思っています。(^^)まだまだ先かな?2つとも作られた概念であるという点で同じだと思ってるからです。
今回の記事分かりずらかったらすみません。私も頭の中のふにゃふにゃした考えを整理しながら書いているのでゴチャゴチャになっているかもしれません。

あと最後に、写実的な絵画を否定してるわけじゃない!ただ写実も抽象も同じくらい不自然で同じくらい自然でリアルな書き方なんだぜ!違いはないんだぜ!ということをいいたい。なんにでもいえることですが固定観念にこだわらず、いろんなことが楽しめた方がお得じゃありません、、、?
デッサンについては次の記事でくわしく書きます。次の記事はほとんどかけているので更新は早いはずです。

アートとお金と美について

あけましておめでとうございます。今年もユルユルやっていくので、読んでいただけたら光栄です。
さて、前回緩い内容を書くと言っていたのですが、村上隆氏の「芸術闘争論」をよんだので、その感想とそれに絡めた話を書きたいと思います。ごめんなさい。今日の内容怒られるかもしれないですwでも私の感想なのでこういう意見もあるよ程度に読みながしてくれると助かります。

過去の記事を読んで思うのですが、私は村上隆さんを絶賛し過ぎだと思います(^^)ええ、今でも私は彼のアートに影響され尊敬します。と、同時に憎いです。前も書いたんですけど、尊敬してますが「なんで自分で作っていない物なのにあんなに売れるの?」(人の手が見られないアートがだめと言っている訳ではないです。それも作品のコンセプトだったりします。だけど私は人の手が入っているアートを見る方が好きです)「いくらなんでも売れ過ぎじゃないか?」と憎くて憎くて仕方がない時もあります。あれです。少女漫画で言う「いやなやつ!いやなやつ!いやなやつ!」と思っていた彼を好きになってしまう主人公みたいな心境です。(耳を○ませば)だから好きだか嫌いだか関係なく影響を受けている人物だとおもいます。スーパーフラット論をすべて信じるかというとそうではないけど確実に面白いと思うし、「私は絶対ああいうアートはつくらねぇ!」っていうのが原動力になっています。という訳でこのブログでなんだかんだいって一番記事が多いのは村上隆さんについてなんですよね。憎しみと尊敬かどっちかわかりませんが、とにかく触発されます。

「芸術闘争論」を読み終わって一番疑問におもったのは、
売れるアート=すばらしいアートということなのか?
私はそうは思わないなぁ。売れるにはそれなりの理由はあると思います。村上さんも本の中でアーティストとして成功するには、作品を作ること意外に、コネクションとか自分を以下に売り出すかとかについて書いています。特にギャラリーの話とかおもしろかったです。でも売ることを目的にするのはアートの目的じゃないと思います。(これは村上さんがそう書いている訳ではないです。念のため)

本の中にも出てきたジェフクーンズについて書きます。ジェフクーンズは村上隆さん、ダミアンハーストとよく同じようにアーティストグループでまとめられるように思います。作品はかなりの高額で取引されと同時にその価値を疑われる人物だと思います。特にアートを作っている人から。

たとえば下はジェフクーンズの作品です。
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Jeff Koons. "Puppy Vase".2008.

これは3000個作られ一個7500ドルとして売られました。これは果たして7500ドルの価値があるのか?もしかしてデュシャンの便器みたいになんか深い意味があるのか?と考えますよね(^^)。でもクーンズはこの作品についてこう説明しています。“The vase is a symbol of love, warmth, and happiness,”http://www.dailyicon.net/2008/08/jeff-koons-puppy-vase-available-for-750000/より
「この花器は愛、暖かみ、幸せを意味しています。」

あれ?(^^)
ジェフクーンズでも村上隆さんの作品でむずかしいのは、ほとんどの人が作品の見た目に引かれる事実がある所だと思うんです。作っているアーティストもそれを分かってやっているのです。かわいいわんちゃんの形でちょっと60年代を思わせる花器を見て「嫌い!」なんて思わないでしょう?でもこういうのは100円ショップでも売ってそうな感じがしますよね。これはどうしてアートになるのか?って思います。デュシャンの便器のようにその問いがこの作品の本質なのでは?って。それもあるかもしれません。でも作った本人はそういう意を込めたとは言っておらず、それはもうすでにアート界で行われてきたことなので高額の理由にはなりません。明らかにただ可愛いから、ただ人に好かれるであろう犬の花器を作ったのです。

ちょっと話をかえます。
前回の記事で書いたように、ポストモダニズムのあと、アートは美しくあるべきだという考えがなくなりました。人によってだいぶ美しいの評価基準は違うからです。(エジプトの壁画もヨーロッパの宗教がも浮世絵もみんなちがう「美しい」の基準で作られたんじゃないでしょうか)
Dave Hickey の Invisible Dragon Four essays on Beauty という本はは1990年代前半にそんな「美」に対する疑いの目についての問題を取り上げた本です。出版された当時はアートの世界で話題になったようです。(日本語訳出ているのか分かりません)
ヒッキーが言うには1980年代後半になると、アートは美しくある必要がないだけでなく、むしろ美しいものに疑いの目でみられる傾向がでてきました。美しいものは人を自然と引きつけるものです。美しいもの=売れるものという関連づけがなされはじめたからです。

西洋史のなかのアートはハイアート(美術館などに飾られるアート)ローアート(消費されるアート、ポスター、はがき、フィギュアなどの商品)をきっちりわけたがる傾向があります。日本では歴史的にその差はあまりないように思います。職人とアーティストのちがいがなかったように思いますし、今美術館で飾られている日本画はもともとは屏風のかざりだったり、浮世絵はポストカードなどの役目を果たしていたり、現代になって当時のローアートだと思われていたものをハイアートにしているような気がします。

とにかく西洋のアーティストはハイアートをローアート(商品として売る)にすることを拒みたい、消費社会から逃れたいという思いがあるように思います。だから大衆受けしやすそうな、「美しい」(「可愛い」も含めていいと思います)ものに疑いの目が向けられた。しかし同時にこんな苦労して作った作品を売らなきゃいのはもったいないし、それに「美しい」ものには引かれるのは事実であるし、といろいろ矛盾もある。

たぶん翻訳されていないので、ヒッキーのほんの一部から抜粋します。
Beautiful art sells. If it sells itself, it is an idolatrous commodity, if it sells anything else, it is a seductive advertisement. Art is not idolatry, nor is it advertising, and I would agree--with the caveat that idolatry and advertising are, indeed art, and the greatest works of art are always inevitable both. (Hickey, Dave. The Invisible Dragon. Los Angeles: Art Issues Press, 1993.16-17)
「美しいアートは売れる。もし作品が美によって自身を売ろうとしているのならそれは商品であり、もしそれ以外を売ろうとしているのならそれは効果的な宣伝である。アートはアイドラトリー(偶像崇拝、おそらくこの場合は存在しないものを崇拝するの意だと思われる)ではないし、宣伝でもないことに賛同する、ただし私は商品も宣伝もアートであり、すばらしいアートは必然的に両方になる。

どういうこっちゃっていうと、アートは商品であると同時に自身を売る宣伝でもある。「美」は人を引きつける力があり、だから宣伝にも使われる。アートが「美」を使うのは宣伝が自身の商品を売り込むように、自身の考え方(アート)他の人に売り込むツールである。だから美しいものを作ってもいい。だけど美しいだけじゃだめで、なにか訴えるものがなきゃアートじゃないっていって言ってると思います。ちがったらごめんなさい。(^^)

で、こんなにたらたたらかいてこの記事なんの答えにも到達してないんですけど、
アートの価値とお金と美ってすごっく複雑!ってことを言いたいのです。(無理矢理まとめた(^^))
ジェフクーンズの作品を見てなんか訴えかけてくる物はあるか?私にとっては特にありません。だけどああいうアートが売れるという事実がある。理由はそれなりにあると思いますが、なんでそこまで高く?って思います。だって全然売れてないけど素敵な作品作っている人たちもっといるじゃない!ジェフクーンズのアートがなんであんな高い値段で取引されるか正直わからんです。妥当かどうかも誰も分からないんじゃないかなぁ。なんか悩まされますww嫌いじゃない。でもああいうアートは作りたくない。

教授とはなしていて思うのですが、アートだけで食べていける人は本当に少ない。ほとんどの人は別の仕事もしていてアートも作るって感じだと思います。それを分かってアーティストになろうと思っていると思います。ほとんどの人はお金をつくりたいからアートやってるわけじゃないと思うんですよねー。私はジュディファフのアートが大好きです。理由はいろいろありますが、ひとつは大きくてサプライズがあるのに誠意が伝わってくるからです。ジェフクーンズも本心で「この花器は愛、暖かみ、幸せを意味しています。」といっているのか分かりません。それはそれで怖いです。誠意というものもあいまいですね。(^^)芸術闘争論読んで、村上隆氏の「一流アーティスト」ってなんじゃいって思ったので書きました。みんなそれを目指してる訳でも目指さなきゃいけない訳でもないんじゃ。とキャリアも名声もない、いつかソロ展覧会してみたい私の独り言でした。

最後に、本のなかで村上隆さんがアート史を知る重要性とか自由神話(アートはなにしてもいい神話)についてかいてありました。私が思うにどんなアートを作ってもいいけど、でもアート史(とくにでデュシャン以降)と今活躍中で自分のやっていることと関係しているアーティストの名前を知っていることは当然、みたいな風潮が西洋のアートシーンにあるようです(主に評論家の中で)だから自由だけど、自由じゃないみたいな。

ここまで読んでくれてありがとうございます。皆様今年もよろしくお願いします。

知っておくと便利?

えっと、今日はいつもとちょっと違うことについて書きます。まったくアート見たことない人はこれを頭に入れておくとわかりやすいかも?っていうことを書きます。全く役に立たない!ということは大いにあり得るかと思います(^^)。ご了承ください。
「現代アート」とひとくくりにされてますが、アートはほんといろいろ存在していて、それを一口に説明するのはとてもむずかしい。どれも「見る」ことに根本があるのですが、アートによって楽しみ方(?)が違うと思うのです。私は、アートは楽しみ方によってだいたい大きく3つに分けられるんじゃないかなって思います。それを今回図にしてみました!

ドン☆

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*3つのカテゴリーの名称は適当です

図が適当?美術系なのに?気にしない気にしない(^^)


・Visual(視覚型)

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Joan Mitchell, "Maryln", 1960.

おもに視覚的に楽しむもの。見て「ああ、おもしろい」って思えるものです。
あまりに、深いこと考えずに見たほうがいいと思うものです。「あ、いい感じだな」っていう風に。でも、これは、結構「見る力」を鍛えないと、何がいいか、何がよくないか、ちょっとわかりづらいカテゴリーな気もします。とにかくいっぱい、見て、「見方」を知っている人がどう見ているかを聞いたら、ある日「あぁ、こういうことだったのかー」ってなると思います!。ちなみに私はたぶんこのヴィジュアルに重点を置いたアートが好きで、このブログで紹介しているのも、そういったアーティストが多いかと思います。油絵は比較的にこのカテゴリーが多いかと思います。



・コンセプチュアル(概念型)

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One and Three Chairs, 1965, is a work by Joseph Kosuth

理性的・頭で考えておもしろいアート。考えを文章ではなく、物体か、視覚化したアートです。ちょっと暗号を読み解く感覚に似ています。上はコンセプチュアルのかなり極端な例だとおもいます。本物の椅子があって、左隣に椅子の写真が置いてあって、その右隣に「椅子」の辞書にのっている定義をのせています。「同じ「椅子」なのに、全然違う物体だ」「写真の椅子は椅子ではなくて椅子の写真だ」などという「椅子」や私たちが何気なく使う物体を指すことばの意味を考えさせます。同じ「椅子」なのに全然違う!

・Experiential(体験型)

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Richard Serra, "A Matter of Time" at the Guggenheim.

最初これをヴィジュアルにいれてしまおうか考えたのですが、ちょっと違う気がするので別のカテゴリーにしました。大きすぎて目の視野範囲収まりきらず、なんか体全体で感じるアートです。インスタレーションや大きな彫刻に多いような気がします。もちろん大きな油絵でもこのカテゴリーにはいったりします。この体験型はとにかくほかの2つのカテゴリー以上に実際に見ないと、写真では良さがほんとうに伝わりづらいと思います。たとえば上の写真はサラのでっかい彫刻なわけですが、まーいってしまえばただのでっかい鉄板(^^)写真で伝わるほど視覚的におもしろいわけでもなく(ただのでっかい鉄板)コンセプトがおもしろいわけでもない(ただのでっかい鉄板)。でも実際に行って、まじかで見る、鉄板の重みや圧迫感を感じられます。また「落ちてくるんじゃないか」という身の危険も感じたりもします。こうしたドキドキ感はなかなか写真では伝わりづらいので、写真だけ見て「これのどこがアートなの?」って言う前に、実際に見てからにしましょう!!

もちろんこのカテゴリーはおおざっぱなもので、ほとんどのアートはこういったカテゴリーを全部少しずつとりいれつつ、どれかのカテゴリーに重点を置いていることが多いと思います。またまったくあてまらないアーティストもいます。

ひとつ例を出すと、

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Sol LeWitt, "Wall Drawing #146",September 1972.

ソル・ウィットはのドローイングはいろんな中間の例かなぁって思います。ソル・ウィットはメモに何個かの指示を書きます。そしてその指示をもとにアシスタントがドローイングを完成させます。ソル・ウィットは実際のドローイングを作る作業にかかわっていないのですが、彼の指示通りにドローイングがあ作られるのです。ということは、あらかじめアーティストのアイデア重視のコンセプチュアルアートなのか?アーティストの役目とは?作品誰が作ったのか?ソル・ウィット?それとも実行したアシスタント?などの疑問が生まれます。また、指示通りに作れば何度でも同じドローイングができるわけなので「オリジナリティとは何か」などと問いたくなります!と、ソル・ウィットのアートはこのような疑問を生みだすコンセプトが重視かと思いきや、それだけではない気もするんですよねぇ。数行のことば指示から生まれたドローイング。完成するまでそのドローイングがどのようなものかアシスタントやソル・ウィット自身もわかりません(ソル・ウィットが実際にメモをもとに自分で試しが書きをしているのか、ちょっとわかりません)。ということは、ただアイデアがあってそれを実行する他に発見もあるわけです。完成図がはじめから決まっているような、いないような。これはコンセプトだけ重視のコスースとは違う気もします。また、完成されたものも、作られた壁や部屋を調和して、美しい!ということで、私はソル・ウィットはコンセプトと視覚の中間かなぁって思います。

いままでこのブログで紹介してきたアーティストをこのグラフに入れてみました。
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見づらいですね!敬称略

ムラサキ(視覚重視)=ファフ、ジー、デ・クーニング、トゥオンブリー、メヘルー、ラウシェンバーグ
オレンジ(視覚とコンセプト重視)=シルエット
ピンク(コンセプト重視)=シカゴ、ウォーホール、コスース、村上
空色(コンセプトと体験重視)=ジャッド、クリスト、スミスソン
黄緑(体験重視)=サラ
青(体験と視覚重視)=草間
赤(例外)=ジェンセン

もちろん作品によって、何に重点が置かれるか、は違ってきます!!改めて見ると、サラ・ジーとジュディ・ファフをもっと体験型と視覚型の中間地点にすればよかったと後悔。例外の例(笑)はセオ・ジェンセンかなとおもいます。見てもおもしろいし、想像力はすごいなーって思うんですけど、やっぱりなにより、技術に感動するので、三角形の外に書きました。どうでしょう・・・・これでちょっと現代アートわかりやすくなりますでしょうか・・・私がこういう風に習ったわけではなくて、なんとなく思いつきなので、あまりこれだけを信用しないように、お願いしますwもっと違うカテゴリーの分け方もあると思いますので。




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