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写真について

前回の記事からもうちょっと脱線すると、現実を表したいんだったら写真とればいいじゃない!映像を映せばいいじゃない!って思うかもしれません。写真に写るものは社会一般的に「リアル」「本物だ」であるという認識があるかもしれません。少なくてもイラストや絵画より信頼性があると思いません??でも本当に写真に写されたものは本物なのでしょうか?写真をすべて信じてしまっていいの?今はPhotoshopやCGなどの技術で写真をいくらでも操作できます。絵と同じくらい信頼性がない、かもしくは、絵より「本物」っぽく見える分危険かもしれません。そういったソフトでの操作がなくてもカメラを持っている人は何を撮るか、またはなにを撮らないか、を選んでいます。
極端な例を出します。
136.jpg
(こちらの写真はhttp://oldphotosjapan.com/en/よりお借りしました。)
↑の写真は1890年代明治時代の写真です。色のせいでうそっぽく見えてしまいますが、色はとりあえず無視しましょう(^^)この写真は日本の家族の日常風景を写そうとした写真だというのがわかります。だけれどよく見ると、背景がただの垂れ幕であることから屋外ではなくスタジオで撮られらた写真だということがわかります。自然に見せるために父親と母親はカメラに気付いていないかのように目を逸らしています。つまり日本の家族をごく自然な姿を作った写真です。

こういった「日本の日常風景」を撮った写真はいくつもあります。こういった写真の買い手は、ほとんどの場合日本人ではなく外国人です。外国人のお土産用だったりしたんですねー。いわゆる外国人受けがいいように「自然」を演出しているんです。

この時代もうすでにこういった風景は日本にはなかったかもしれない。ほとんどの人が洋服を着ていたかもしれない。赤ちゃんをかごに入れている人なんていなかったかもしれない。外国人の「日本はこういうイメージだ!」という主観で撮られた写真なんじゃないでしょうか。カメラマンは外国人が見たいと思う日本を撮った可能性が高いです。現実とはぜんぜん違うのに。

これはたしかに極端な例です!だけど当時の日本に行ったことがない外国人はこの写真を見て「そっかぁ~これが日本か~」って思うかもしれない。でも現実は違う。誕生日会で家族全員で写真を撮る。みんな笑顔で写ってます。テーブルにはケーキがあって、ご馳走があって。その写真を見た他人は「仲よさそうな家族」「楽しそうな誕生日会」って思うかもしれない。でも現実にはその家族は崩壊寸前かもしれない。写真を撮る直前ケンカをしていたかもしれない。でもそんなことは写真からは伝わらない。写真を撮った人のとりたいと思ったものしか写真には写らないのです。

私はアート史の授業をとるまで「写真は真実だ!」って思い込ませられて育てられたなって思ってます。「真実」なんてそんな簡単に物体化できるわけない・・・・。広告とかで写真はよく使われていますが、やっぱりイラストよりも「本当っぽい」って思えてしまい信頼性があります。だから写真を信じすぎてしまうことはとても危険なことだと思うのです。
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ネオダダその2

こんにちわ今日はラウシェンバーグとジョンズについて描こうと思います~。二人は何気にカップルらしかったですね~。私はラウシェンバーグ好きです★彼の作品を前にすると涙が出るほど興奮する。それとかれのお人柄もとってもよさそうなので好きです★

rauschenberg-white-painting2.jpg
Robert Rauschenberg "White Paintings" 1951

上の写真はだいぶ若いころのラウシェンバーグです。後ろにあるのは「白い絵画」。名前の通りただの白い絵です。これだけ見るとミニマリズムのように思えますが、作品の趣旨はまったく逆です。白いキャンバスをギャラリーに置くことで見る人に絵画の中の狭い世界だけに目を向けるのではなく、外の世界に目を向けるように呼びかける趣旨があるらしいのです。どういうことかというと、白いキャンバスは見た人たちはそれぞれちがう体験を与えます。自分の影がキャンバスにうつるのがみえたり、またはギャラリーにいるほかの人の影が見えたり。置く場所、時間帯、ギャラリーのライトによって見え方も変わってきます。回りの状況や環境に影響されるアートなのです。まぁ、実際これを見るためにわざわざ美術館に行こうとも思わないが(コラ)だけどコンセプチャルな意味でおもしろいと思います(^^)

ミニマリズムだけじゃなくて、特に昔のアートは内向的な傾向があったとおもうのです。ルネサンスの宗教画で天国や神の絵がかかれています。今の現実が辛くても死んだらあんな素敵な所にいける!と思えば少し気が安らいだのでしょう。ちょっと残酷ですね。(^^)エンターテインメントすべてにいえると思うんですが、辛い現実を一時だけも忘れさせる一種の逃げ口ともいえます。(もちろんそれも必要な事です)エンターテインメントここではない別の現実を描いているんです。

昔の絵画はほとんどの場合パトロンが存在し、画家や彫刻家は作品を作り続けるためにパトロンから資金をあつめなくてはいけません。だからパトロンにある程度気に入られる作品を作らなくちゃいけないわけです。パトロンはなぜ資金を与えるかというと、個人のエンターテインメントだったり、財力をみせつけるためだったり、または教会の宗教画のようなものであれば信者を増やすためであったり。簡単にまとめてしまうと力のつよい資金力のある者のためにアートがつくられてたりしたんじゃないかなって思います。

ラウシェンバーグの「白い絵画」からは「現実を見よう」「アートは逃げ口なんかじゃないぞ」「アートはみんなのものだぞ」「画家だけがアートを作ってる訳じゃないぞ。観客と一緒に作るんだ」というメッセージが伝わってくる気がします。
ラウシェンバーグの有名な格言で自分は"in the gap between art and life"(現実とアートの間)に作品を作りたいというのがあります。 アートがただの現実離れした空想世界を描いたものではなくて現実を描いているんだ!!・・・とまいってしまっていいかわかりませんが、ネオダダには、エンターテインメント(?)と現実とのギャップをうめようとしているように思います。

なんか今回ネオダダっていうより、私の語りばっかになってしまった・・・。ごめんなさい、次回はもっとラウシェンバーグについてかきます。

ネオダダ その1.5

やる気があるうちに続き書きます~~

ちょっとアートとは違うんですがジョン・ケージという音楽家についてちょっと書きます。言っておきますが私は音楽史に対する知識はほぼゼロといっても過言ではないです(^^)。自慢じゃないけれどど、普段自分で音楽も聞きませんし、楽譜も読めませんwなのでまちがった知識があったらごめんなさい。
ジョンケージはネオダダのアーティストととても交流があった人物です。彼の有名な作品で4’33’’(4分33秒)という作品があります。この作品の演奏者はピアノの前で4分33秒すわって、なにも弾かないというものです。

こちらです↓


オーケストラバージョン


最初これ見たときは「なんじゃこりゃぁ~」「こんなの音楽なのか」とか思いました。ユーチューブのコメントも見る限り、みんな怒ってますね(^^)この作品の趣旨を簡単にいうと、音楽じゃなくて演奏者も聞き手も自分の身の回りに耳を傾けることが狙いです。静かにしてれば、隣に座っている人の息する音が聞こえます。オーケストラバージョンではしばらくすると、観客がザワザワしだしてます。だからなんだっていってしまえばおわりです。でも今までの音楽とかアートとかの歴史を見るとまったく新しいです。新しければいいのか!って言ってしまえばそれもそうです。しかしよく考えるとおもしろいです。
普通の音楽は演奏する側とその聞き手がきっちりわかれています。聞き手はいわば受身です。演奏者の方が音をコントロールする力があるので、聞き手より地位が上です。だけど4’33’’という作品の中では、聞き手も演奏者であり、演奏者も聞き手であり、みんな平等にひとつの作品の参加者になれます。それに最近の私たちは一日のなかでどれくらい静けさに耳を傾けますか?静けさがあればあるほどしゃべりで埋め尽くそうとしたり、iPodを耳に当ててしまいます。ひと全体が静けさが気まずいとまで思ってしまう傾向になってきたと思うのです。そんなこともありジョンケージの4’33秒は今の時代まわりの雑音に耳を傾けるという意味でも重要なのかもしれません。

ネオダダ その1

テストかで忙しくて更新できなくてごめんなさい。死んでません(^^)ときどきブログの更新が突然止まっているのを見ると、書いているお亡くなりなったんじゃないかと不安になったりしますよね!しない?そう・・・。
ネオダダはかなり好きなので、2回以上に分けようと思います!(勝手な)
それと早く前の記事とかももっとちゃんと調べて編集したいんですが・・・・!もう少しお待ちを!

ネオダダとはなにかというと、簡単にいうとおニューなダダイズム(トイレの人ことデュシャンとかはダダイズムのアーティストです(^^)v)。ネオダダイズムのかかわる画家はだいたい2名、ラウシェンバーグとジョーズ(アメリカの旗の絵を描いた人)、パフォーマンスアートではハプニングズで有名なカプロー。それと音楽のほうだとジョーンケージなどが有名だったと思います~。それぞれやってることは若干違うんですが、やろうとしていた趣旨にはつながりがあります。

ミニマリズムがどんどん抽象的になっていき、どんどん一般の人からは入りづらいアートになっていきました。グリーンバーグの重要視したフォーマリズム(アートを色彩、構図、素材などの観点から作品を評価するという見方)のおかげでアートはどうしても内向的になります。ついでにちょっとエリート思考にもなります。抽象的になればなるほど、「現代アートっていみわからん」って思う人が増えるわけです。

ネオダダイズムのおおまかなコンセプトは一般の人も参加できるアートを作ること。それと作品の中だけではなく、外(現実)に目を向けることも促進していきました。
具体的な例で言います。
カプローは(たぶん)はじめてパフォーマンスアートを始めた人だと思います。
たしかダダイズムの人も似たことをやっていたのですが、パフォーマンスもアートだー!みたいに確定させたのはカプローかとおもわれます・・・?。パフォーマンスアートというのは、アーティストがパフォーマンスを行い、観客がそれを見るというアート。視覚だけではなくて、聴覚や触角も楽しませてくれたりします。最初のハプニングは同じステージで詩人が詩を読んだり(ジョン・ケージも参加しました)、画家が(ラウシェンバーグ)絵を披露したり、ピアノを弾いている人がいたり。それらのことが同時に起こっているのです。カプローは一般の観客も参加できるように、アートはアーティストだけじゃなくて、観客と一緒に作るものだと考えたのでしょうー。。素敵ですね★そのみんなで経験したできごとこそがアートだとしたのです。アーティストはその経験の場を提供する役目にあるのです。
それと彼もある意味グリーンバーグの言ったことに影響を受けています。グリーンバーグはできあがった絵画よりプロセスを大事にしろ!っていっていたので、ならば最後の出来上がった品物もなくしてしまえ!プロセスのほうが大事なんだろ!って感じでプロセスを作品にしたんです。プロセスすなわち経験です。そのできごとが作られて、観客がそれを見て感じて、それらすべては作品を作るプロセスであります。

パフォーマンスアートのもうひとついいところは、プロセスや、そのあった出来事が作品なので、資本主義によって商品化のしようがないこと。いくらピュアなアートを求めても、物体があるものは結局はアーティストの手から離れたとたん、政府だったり、企業だったり、いいように使われて、本来の作品の意味までも変えられてしまいます。それを避けるにもよい手段だったんです。

ネオダダのいいところって、アーティストと観客のヒエラルキー(階級)をなくそうとしたところだと思うんです!現代もそうなんですがアートって金持ちとか貴族の遊びって思われるところがないですか??「アートの世界なんてわからん」とかよくいわれてますよね??そのアート界と世間をつなげようとしたんじゃないでしょうか~。私もそんなアートが作りたい:)

来週もネオダダイズムについて書きます!じゃ、今週のネオダダのポイントをまとめると!
*一般の観客も参加できるアート
  →アーティストと見る人の間にヒエラルキーをなくそうとした!
*その時の出来事・経験が作品!
*商品化されない!(はず)

です!ではまた!夏休みになりましたので、更新をもうちょっとはやめられると思います。
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