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サイ・トゥオンブリー

久しぶりですー。なんだか最近アクセス数増えてる気がするので嬉しいです~。それと同時に適当なことをかけないという責任感も感じておりますwww今までの全記事を見直したいのですが忙しいのまたこんど(うわ)このブログを読むときは「あくまで私の見解、私の感じたこと」と考えて、私が言っていることが正しいとは思う人は(いないと思いますが)思わないでください。

今日はサイ・トゥオンブリーについてかきます。友人から聞いた話では、この人は今ニューヨークでかなり人気らしいです。どこにいっても展覧会をやっているそうな。トゥオンブリーはネオダダのラウシェンバーグともジョーンズとも深く交流があった人物です。(前の記事参照)この方はまだ生きて今バリバリ活躍中です(^^)

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Cy Twombly, Leda and the Swan1962

なんで今回このトゥオンブリーについてかこうかと思ったかいうと、この人の作品を見て

「うわw俺でもかけそう」

「むしろ子供にもかけそう」


といわれそうな例No.1だと感じたからです(^^)

まぁそうです。いってしまえばそうです。たしかに彼の絵画には技術はいりません。だからといって良さがないわけではありません。私も大学受験のとき何年かデッサンの練習をしてきたのですが、技術(写実的にかくちからとか)は練習してコツを覚えれば結構なレベルまで到達すると思うんです。正直「おまえ、絶対受験勉強したくないから美大にいこうとしているだろ」というひとが前の絵画教室にいたのですがその人も一年その教室に通っていたら結構上達していました。

というわけでなにがいいたいかというと技術がない(または使われてない)=駄目なアートじゃないと思うんです。というか技術よりも結局「何がいいたいか」というほうが重要なのです!(何が言いたいか、というのは単純に「光の美しさ」「ラインのきれいさ」から今の気分、政治的意見、哲学学的考えや言葉に表せないことまでそれら全部)

しかし!かといってキッチリさ、綺麗さ、丁寧さ、高レベル、技術力、理論とかが高く評価される(汚さ、緩さ、低レベル、てきとうさなどより)現代社会でいきなり「子供のらくがき」を見せられて「これはいい」というのも難しい(`∀´)おそらく技術のないもの=駄目 みたいな評価の仕方を小さいころから植えつけられているから(`∀´)だから仕方がないといえば仕方がない。

ですが、アート、とくに現代アートをみるときは技術あるないでみるのではなく純粋な気持ちで(果たしてそれはどんな気持ちなのかと説明しろといわれてもできませんが)見ることが大事だと思うのです。というか何も考えないほうがいいです(^^)いきなり理論的に考えちゃ駄目なんです。まずはただ目の前にあるものをそのままみるんです。そのあとに、いま感じたものは何なのか?と理論的に考え出すんです。これが意外にむずかしい。いきなり理論的脳をシャットダウンできるようになるのは練習しなければいけません。私もアートのよさがわかるようになったとき、いかにいままで理論的に考えさせるように育てられたかっていうのに気づきました。

たとえるなら自然をみるときのような目でみるんです。山登りにいって、頂上に達して上から見渡す山々、永遠に続く広い海、地平線、花の色の鮮やかさ、海に潜ったときに見るきれいな色の魚、滝の迫力をみて感動するように、そんな気持ちでただ感動するんです。何も考えず感動するんです。自然を見るとき別に技術のありなしとか、考えませんよね。ありのままの姿に感動します。
(といっても私は自然を見て感動するようになったのはアートを見て感動できるようになった後でしたw)

私もはじめ大学一年生のときにトゥオンブリーの絵をみたときは「なんじゃこりゃ」っておもいました。だけど2年後に同じトゥオンブリーの絵をみてとても好きになりました。
具体的にどういうところがいいかというと
1.緩さがいいです(^^)
ルネサンスやバロックとかのギツギツに遠近法が計算され陰影もがっちりした絵画を見た後に、トゥオンブリーをみるとすっごくすがすがしい(^^)気分になります。トゥオンブリーの空間は計算から程遠く、ほんとに開放的な空間をしているんです。
2.勢いがある
トゥオンブリーのキャンバスは大きいものが多く、絵の具の使い方がとても力強く筆をリズミカルにキャンバスの上に筆を走らせているので、見ていてとても気持ちがいい(ー▽ー)クヨクヨしてない!
3.純粋に絵を描くことの楽しさが描かれている(^^)
えんぴつもって、けしごむでけして、筆で絵の具をキャンバスにつけて、絵の具がたれて、こういった画材を使ったときのシンプルなおもしろさが伝わってくる気がします。絵かくのってたのしいよね!って



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Cy Twombly, The Natural World, 2000-2007.

コンセプトでもおもしろい点はたとえば上の絵。まるで壁紙のようなデザイン。色も魅力的な水玉模様。模様と手で書いた筆跡のちがい、アートとデザインの違いについて考えさせられます。

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Cy Twombly, "Note II", 2000-2007.

文字とただの筆跡のちがいについて考えさせられます。特に色合いがチョークボードに書かれた文字などを連想させます。なにが文字でなにがアート?普段は意味があるとおもわれている文字がくりかえされることで無意味に使われています。

美術館を一日中見回って、すっごく疲れたときにトゥオンブリーをみてみてください。きっとなんか開放的な気分にさせられます(*^^*)あとこのブログで良さがわからない!って思っても、本物をみてから決めましょう!!

P.S. ところで私はこのブログでの私の文章が「えらそうになりすぎていないか」っていうことを常に考えているんですが、どうですか?もしそうなっていたらごめんなさい。
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ポップアート アンディ・ウォーホル

またまた久しぶりです。合格発表を待っていてドキドキな日々が続いております(^^)

ここ数日で更新してないのにもかかわらず拍手を押してくださっている方、ありがとうございます。そしてすみません・・・
今日はポップアートについてかこうとおもいます。ポップアートの代表的人物といえばアンディウォーホル!アートに興味がない人でも一度はマリリンモンローやバナナ、キャンベルスープの缶詰をモチーフにしたシルクスクリーン(版画の一種)をみたことがあるでしょう。


ウォーホルはとってもおもしろい人物です。そしてとても謎です。

ウォーホルはその辺にあるような日用品をモチーフにしたポップでカラフルな版画を多く生産しました。その行動によってアートはこういうものだという固定観念を派手にくずした人物だと思います。

ウォーホルのアートは今やクリアフォルダ、バック、財布、筆箱に印刷されたり、アートがわからないという人でもなぜか惹かれてウォーホルのアートが印刷された商品を持っているということが多々ありますよめ(^^)。色が明るいし、スタイリッシュにみえるからでしょう。ウォーホルの策略で表面的に魅力的になるようにしているのだとおもいます。商品とアートの境目をあいまいにするのが彼のアートの趣旨でしょう。

ポップアートが始まったのは1960年代、戦争が終わりアメリカ人のくらしが裕福になっていきます。大量生産大量消費の時代がやってきました。当時のアメリカは、安く大量に作られた商品をより多くの人々に提供できることで、人々に快適生活を与え自由と自立と幸福を与えていると思い込んでいたのでしょう。

ウォーホルのアートのおもしろい点は、ウォーホルが自らの手を加えずアシスタントに実際の作品を作らせていました。(デザインなどはウォーホルが考えていると思いますが)さらに、シルクスクリーンという手法は一つのデザインから何枚もの作品を作る事を可能にしました。彼の作品が作られるスタジオを「ファクトリー」(工場)と自ら呼びました。大量生産消費社会のパロディととっていいでしょう(^^)商品も大量生産されるんだから、アートも大量生産すればいいじゃない!的な、ね(^^)
ウォーホルのこういった作品のプロセスから以下のような疑問が生まれると思います

アートとは何か?
アートは商品なのか?
アートとデザインの違いは何か?
作者とはなにか?デザインを考えた人?実際に作った人?
アートの価値はどう作られるのか?
作品自体の価値よりアーティストのブランドとしての価値の方が高いのではないか?
ブランドとは何か?
オリジナルとは何か?
はじめに作られたものは後に作られたコピーより価値があるのか?

など。また彼がシルクスクリーンにしようと選んだ絵にはこれに加えて違った疑問も浮かんでくるかと思います。
a hundred soup cans
Andy Warhol, "100 Cans", 1962.

キャンベルの缶は大量生産される商品の代表的な例のひとつです。このキャンベルの缶を無意味に何度も何度もくりかえされた画面をみるとひとつひとつの缶の「個性のなさ」「同じさ」が強調されます。
ちょっと話しそれますがアメリカ人はスープを材料から作ることはほとんどないそうです。ほとんど缶やインスタントのものをお湯で薄めて温めて飲むそうです。ウォーホルはこういった習慣が増えるにつれて、それに危機感を感じたのではないでしょうか。たしかに多くの人が安くていろんな味のスープを飲めるという自由や権利を手に入れた。だけどそれは逆にキャンベルという会社が選んで売ることを決めたスープしか、消費者は飲めないわけです。ほんとうに選ぶ権利や自由が増えたといえるのか?怖くないですか(^^)?消費する自由を手に入れた!といっても、企業にコントロールされた範囲内だけの自由なのです。

また下はマリリンモンローのシルクスクリーンシリーズ。
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Marilyn Monroe (Marilyn), 1967,

いろんな色で印刷されましたが、どれも黒いインクの部分(影の部分)さえ描かれれば、「マリリンモンロー」だとわかってしまうんです。マリリンモンローという一人の人間なはずのに、まるでキャンベルのスープ缶のように大量消費社会のなかのブランドのロゴのようににされてしまっているわけです。彼女の特徴といえば金髪の髪、泣きホクロ、セクシーなたれ目と分厚い唇。それが彼女のブランドです。彼女の内面とかまったく関係なしでその表面的特長だけでモンローとされるわけです。メディアのなかで、芸能人がまるで商品と同じように扱われてること疑問をもたせます。

またまた下は交通事故をあらわしたシルクスクリーン
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Green Car Crash (Green Burning Car I), 1963.

くりかえされたこのグロい画像も一枚だけならば衝撃的なのに、何度も繰り返されるとまるで壁紙のようにそのショックはなくなってしまいます。人が死んでるかもしれない残酷な事故にもかかわらず何度も何度もくりかえしこの衝撃的な映像をみさせられてしまうと人は慣れてしまうのです。ニュースで流れる遠い国での災害や殺人事件が普通に居間でくつろぎながらテレビで見られる時代。「たいへんだねぇ」っていいながら人事。情報化社会でいろんな情報が手に入り便利になると同時に、なにかおかしくないか?(^^)って疑問を持ちます。
最近、ハリウッド映画は爆発やら殺人やら人がどんどん殺されてどんどん暴力的になっています。はじめて映画というものが発明された頃は、汽車が突進してくる白黒映像を映画館で見た観客はあまりのリアリティに映画館を飛び出して逃げてしまったそうです。いまは映像はカラーになってどんどんリアルになっていくのに、汽車以上の迫力の映像を平気で見れてしまいます。
ウォーホルの作品はそんな「慣れ」という怖さやメディアというもの疑問を抱かせてくれます。

村上隆が尊敬する人物のなかにアンディウォーホルがいます。
村上隆のアート育成企業の名前はカイカイキキですが、以前はヒロポンファクトリーでした。いまでもアートは商品なのか?という疑問を問い続けられてるわけです。
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